親父の小言とは
親父の小言とは
- 火は粗末にするな
- 朝きげんをよくしろ
- 神仏をよく拝ませ
- 不浄を見るな
- 人には腹を立てるな
- 身の出世を願へ
- 人に馬鹿にされていよ
- 年寄りをいたわれ
- 恩は遠くからかくせ
- 万事油断するな
- 女房のいうこと半分
- 子のいうことは八九はきくな
- 家業は精を出せ
- 何事もかまわずしろ
- たんと儲けてつかえ
- 借りては使うな
- 人には貸してやれ
- 女郎を買うな
- 女房を早く持て
- 難渋な人にほどこせ
- 生物を殺すな
- 年忌法事をしろ
- 義理は必ず欠くな
- ばくちは決してうつな
- 大酒は呑むな
- 大めしを喰うな
- 判事はきつく断れ
- 世話焼になるな
- 貧乏を苦にするな
- 火事の覚悟をしておけ
- 風吹きに遠出するな
- 水はたやさぬようにしろ
- 塩もたやすな
- 戸締りに気をつけろ
- 怪我と災は恥と思え
- 物を拾わば身につけるな
- 小商ものを値切るな
- 何事も身分相応にし
- 産前産後を大切に
- 小便は小便所へしろ
- 泣きごとは必ず云うな
- 病気は仰山にしろ
- 人の苦労を助けてやれ
- 不吉は云うべからず
- 家内は笑ふて暮せ
親父生前中の小言を思い出して書き並べました。
今にして考えればなるほどと思うことばかりです。
大聖寺 暁 仙
「親父の小言」のルーツを探る
「親父の小言」は、何気ない言葉なのですが、なぜか気持ちが安らぎます。
あらぶる心の沈静や人間として大切な人生の指針が詰まっています。
そんな小言が全国でブームになっています。
国道6号線から北東へ10分ほど車を走らせると、南面する石段に突き当たります。その両側には東北地方南部でも珍しいアカガシ樹群(県天然)が見られます。
この石段を上った大聖寺の地で親父の小言は生まれました。
現大聖寺ご住職青田暁知和尚が「親父の小言」のルーツを語ってくださいました
仏さまになった親父
「親父の小言」は、庫裏の一室に古くから掛けられていました。
暁仙とは、現大聖寺ご住職青田暁知和尚の父。昭和16年、暁知和尚が11歳の夏に47歳の若さでなくなりました。
小言が書かれたのは昭和3年のこと、暁知和尚が小言の由来などについて聞くことはありませんでした。
ただ、物心がついた頃からトイレには小言の写しが貼ってあり、「小便は小便所にしろ」の言葉には赤丸が付けられていました。
小言の為書には「親父生前中の小言を思い出して書き並べました。今にして考えればなるほどと思うことばかりです。」との一文から、小言を言った親父とは、父の父である青田八郎のことであることを裏付けています
親父を知る
父暁仙は明治28年、農家の三男として生まれ、
12歳の時に大聖寺の小僧になりました。
大正10年、26歳で師匠の跡を継ぎ、住職就任の日、本堂がもらい火で全焼してしまうのです。
頃は大正バブルの下り坂、間もなくバブルが崩壊し、米価の暴落もあり、借金を余儀なくされます。
寺の田畑を売り払った上、銀行から高利の借金をして、返済に追われる毎日が続き、15年をかけて当時で15万円という多額の借金を返済しました。
「火は粗末にするな」「火事の覚悟をしておけ」「風吹きに遠出するな」「水はたやさぬようにしろ」「怪我と災は恥と思へ」と、火事についての注意を喚起する言葉がいくつか見られます。
また、「たんと儲けてつかへ」「借りては使うな」という借金に関する小言もあります。
父の苦労は続き、出身大学に勤務することになった昭和14年、日中戦争の最中に戦死者供養の際に、中国北部にいた弟を訪ね、極寒の中での無理がたたったのか心臓を患い、
帰国後は療養の日々を送りました。そして、昭和16年、47年の生涯を終えました。
「泣きごとは必ず云うな」とありますが、何かと苦労の多かった父は、この言葉を自分自身に向けていたのかも知れません。
父の死後、私は22歳で父の跡を継いで住職になり、私の人生は小言の一言一言に随分と助けられてきたものです。
数ある小言の中で「恩は遠くからかくせ」とは、45の小言の中の目玉と言える言葉です。
世間に出回っている「親父の小言」は「恩は遠くから返せ」となっていますが、もともとは「かくせ」、つまり人に何か施しをしても自慢するな、お返しを求めるな、陰徳を積めという意味が込められています。これも常に私の指針となってきました。
父が亡くなる3日前、父の枕元に呼ばれました。「おまえは大人になったら偉くならなくてもいい。立派だと言われる人になるよう心掛けなさい。」
私に対する最期の言葉は、遺言になりました。
当時戦争に役立つ人になれ。出世しろと言われていたので、「立派だと言われるような人になれ」と言われて戸惑いました。
小言には「身の出世を願へ」とありますが、世間で言うところの出世と、もう一つ意味があるように思われます。
何かに打ち込むことで、社会の役に立つ人が大勢います。魚屋の大将、野菜作りの博士、壁塗りの名人、この人たちは名こそ上げませんが、出世を遂げた偉い人たちでもあります。
父が残した「立派な人」というのは、このような方を言ったのではなかったのか、と自問自答することがしばしばです。
今は、テレビを見ながら小言を言っても聞かない時代になりました。親父にしても小言をいう間もないのではないかと寂しい気持ちです。
世に広まる
「親父の小言」は、檀家さんをはじめ、地域や訪れた人々に紙にまとめて配られていました。昭和30年代の半ば、町内で商いをしていたマツバヤ商店が、商品化して売り出したのをきっかけに、評判が評判を呼んで全国に広がりました。
世に出回る「親父の小言」は、オリジナルのもので、いくつかの点が異なっています。
世の中の親父が言う小言を集めてまとめられ、形を変え、人によってもさまざまな解釈の余地が生じるのでおもしろいものとなっています。
多く世間に出て評判を得ているのは、何か人々の琴線に触れるものがあったからでしょう。最近では英語版まででき、外国人にも知られるようになり、
多くの人たちの目に触れるようになりました。
青田暁知著「親父の小言」より一部抜粋
親父の時代が変わったのは、小言からも見られます。興味深い小言を取り上げ、その解釈について、青田暁知著「親父の小言」より一部抜粋してご紹介します。
子のいうことは八九はきくな
もちろん子供の言うことを一から十まで聞くのは、親馬鹿の見本のようなもの。この小言は、全部は聞くな、叶えてやるな、ただし、一、二は子供の言い分を聞いてやりなさいと言っています。
「麦踏み」という言葉をご存知でしょうか。早春、4、5センチに伸びた麦を踏んで歩く仕事です。
霜で浮き上がった麦の苗を大地に押しつけて根をしっかりと張らせ、丈夫な苗に育てる為のもので、穂を豊かに稔らせる為には欠かせない農作業です。子供たちが、テレビ、ゲーム、携帯で頭でっかちになり、浮き上がっても麦踏みをしてくれる大人がいなくなってしまい、穂を稔らせることができなくなっています。
子供の言うことを聞いてやる。子供にとって優しい、理解のある親の役を一生懸命に演じているつもりなのでしょう。
一見素晴らしいことのように思えます。しかし裏を返せば、そこには親の責任が存在しないとも言えます。すべてを聞き届けるということは、あえて聞かないという、聞くよりもずっと大事な親の責任を回避しているとも言えるです。
昔の親は「ダメなものはダメ」と言える威厳があったと思います。
なぜダメか、そんな説明は一切なし。
それがいつの日からか、親と子供が平等になり、「ダメ」と言うために、子供にでもわかる合理的な説明が必要になってきましたが、合理的に答えることなど無理なのです。
そのことで親はものが言えなくなってしまいました。そしてひたすら聞き手にまわって、すべてを許す。現代の父親たちには少々耳の痛い小言です。
女房のいうこと半分
この小言、人によって受け取り方が全く違うのが面白い。
「女房の言うことなど、適当に、半分程度聞いていたらよろしい」そう強気に解釈する人。
「女房の言うことを半分くらい無視してやりたい」と、これは願望派。
「せめて女房の意思は半分程度に収めて欲しい」と、これはだいぶ強い奥様の影響下で暮している方の弁。小言が言われた時代の家庭を考えると、「女房の言うことと亭主の言うことは、半分半分の大切さで尊重されるべき」ということでしょう。
亭主関白。亭主は威張っていて当然の時代のことです。時がたち、今や亭主関白は死語に近い言葉となってしまいました。
妻の意見は「せめて半分くらい聞いてあげよう」や「聞くのが当然」を通り越し、「せめて半分くらいで我慢して欲しい」というのが現状のようです。男女平等、雇用均等法のご時世です。世の亭主族は耐えなければならない。これが現代版、男の美学なのでしょう。でも、時にはこんな小言を世の奥様方にも読んでいただきたいと思うこともあります。
「亭主の言うこと半分」
家内は笑ふて暮せ
最後の小言です。
小言の親父は、この一言を言うために、くどくどと多くの小言を並べ立てたのかもしれません。
家内とは家の中のことをさし、誰しもがそう思い、でもなかなかできない。その最たるものではないでしょうか。最近の家族は一つ家屋に住んでいても、心の交流や信頼感が薄れつつあるように思われてなりません。
父親はナイターのホームランに拍手、母親はメロドラマのハッピーエンドにニンマリ、息子はテレビゲームの高得点に歓声を上げ、娘は誌も聞き取れないような音楽やパルプマガジンに夢中になる。各人笑っているか
もしれませんが、それは家族が笑って過ごしている事とは言えません。
そんな家族の姿を「ホテル家族」と言い表しています。同じ建物の中、完全に分けられた部屋にいて、全く別の生活時間を過ごす。
しかし家族とは、喜怒哀楽をともにし、心配しあい、愛しあうべきものです。一つ屋根に住むだけの他人同士ではありません。家族で笑うて暮らすために、何が必要なのかをぜひ考えていただきたいものです。
美味しいものを食べて笑う。ほめて笑い、ほめられて笑う。照れて笑う。失敗をごまかして大袈裟に笑う。つまらない冗談を言って自分だけ笑う。まず自分が笑う。
案外、そんな単純なことに正解があるのかもしれません。
オリジナル「親父の小言」を世に広めるきっかけとなった
町内の商店であるマツバヤに当時の様子を取材してきました。
松原 靖さん
商品化したマツバヤ社長 松原靖さんに当時のお話を伺いました。
駅前にマツバヤがあった頃、店に勤めていた鈴木謙さんが親父の小言を知り、「おもしろい、これを商品化してはどうか」と発案しました。
鈴木さんが35バージョンに取捨選択し、一枚一枚を丁寧に手書きし、表具して額に収めていきました。
店に陳列したと同時に、新築祝いや贈り物など、口コミで好評を得ました。また、大堀相馬焼の湯呑みに親父の小言を入れ、木箱に入れて販売したものもヒット商品となり、お土産やお祝いなどに買い求める客さんに重宝されています。
今では、形を変え、品を変え全国的にオリジナルが広まっていますが、鈴木さんの書には「青嶺」と明記され、世の家庭の幸せをそっと見守っていることでしょう。
故 鈴木 謙さん
松本 正人さん
鈴木謙さんとはどんな人柄だったのでしょうか。
マツバヤの松本正人さんにお話を伺いました。
鈴木さんは、明治36年に生まれました。書には自信の腕前を持ち、自己流で個性的な肉筆を持っていました。
相手が見て良いと思うものはなにより良いと、あの文字が完成したのだと思います。
「おじさん」の愛称を持ち、その風貌からも伺えるように、極めて温厚、誠実でみんなに親しまれていました。
知識人であり、経験と知識をフルに回転させ、いつも快く相談に応じてくれる愛される人柄でした。また、明治生まれの頑固なまでの一徹さを見せる一面も持ち合わせていました。
そんなおじさんだからこそ、小言に感銘を受け、世の人への教えを伝えていこうと思ったに違いありません。
冷酒と親父の小言は後になってじっくり効いてくる
今も世に受け継がれている親父の小言は、時空を超えても、なお愛されています。
社会の厳しさやルールをしつけるには、耳が痛いほどの小言が効き、また、小言の中には優しさを感じました。世知辛い世の中でも、誰にでも優しくできるような心のゆとり、ぬくもりを持つことができます。
無口な親父が言ってくれた忘れられない言葉は「生きる」支えとなって、私たちに勇気と自信をくれました。また、自分が苦境に陥ったとき、立ち上がる原動力となりました。
つぶやく親父を見かけたら、小言に耳を傾けてはどうでしょうか。
おわりに、暁知和尚はこう語っています
家族とはなんだろうか?どうあるべきだろうか?
家族を束ねる扇の要は父親であり、母親であります。
頼られ、家族の規範を示す存在であることが必要です。
それが、親としての最低限の義務、しかも最高のプレゼントです。
親父とは孤独なもの。その孤独に耐え続ける姿、その背中を見て育った子どもは、いつの日にか小言と一緒に親父の背中を思い出し、懐かしみ、親父そっくりの小言をわが子に繰り返すことでしょう。